映画「恋愛小説家」

ジャック・ニコルソンヘレン・ハントの中年恋愛映画。
普通に心静かに楽しめるが、わざわざ借りてまで
見る必要もない映画。
だが、しかしラストの夜明けのパン屋の雰囲気の良さだけは絶品。
あんなに早くからやってるお洒落なパン屋は
少なくとも家の近所には無い。
コンビニでは絵にならないし。

16類型性格分類

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私はENTP型であった。ちなみに…

創意に富んでいて、本職であろうと余技であろうと、いろいろな活動に手を出す。
際限なく可能性をみいだすN型に、客観的に決断をくだすN型と外向的なE型があいまって、何をやっても新しい着想や夢のような計画を持ち出す。
EP型はたいていそうだが、ENTP型も、すでにあるアイデアを実行に移してやり遂げるよりも、新しいアイデアを追い求めるほうが楽しいと思う。
しかも、この世はチェス盤のようなもので、みんながうまくいくように駒をーそれも自分がー動かすべきだ思っている。
とどのつまりは自分だけでなくほかの人も巻き込み、新しいことに次から次へと挑戦する結果となり、悪くすると、きりなく夢を追って中途半端に終わってしまいかねない。
家庭にしろ職場にしろ趣味にしろ、それがどんなにうまくいっていても、もっとよくできるはずだと思う。
また、一か八かやってみるタイプなので、うまくいけば大もうけをするが、失敗するとすってんてんになる。だから、ENTP型の人生は(本人だけでなく、周りの人たちにとっても)、予測できないアップダウンや急カーブが続く、スリルに満ちたジェットコースターのような人生になる。

寝た子を起こすな

中学生時代、同和問題に代表される人権問題を興味本位で
色々調べたのをふと思い出した。
我が祖国は分厚い保守地盤で固められた地方都市であるので
一切、同和教育や日系韓国人に関する教育は無く
そんな問題があることすら知らない人間が一杯いる。
実際には同和地区といわれる場所もあり、昭和50年代以前は
明らかな差別意識が根付いていた。
しかし近年、徐々に(特に若年層)そのような意識は薄れ
高校生くらいだとそんな感覚すらないのだ。
これは良いことなのか、悪いことなのか。
同和問題を扱う本には大抵「寝た子を起こすな」という
意識は厳然たる悪であり、一人一人が問題意識を持ち差別の無い世界を
作らなければいけないという論調で占められている。
しかし世の中でそういう歴史を知らない人間が大多数を占めていけば、
目で見える違いが無い、そんな差別なんかはなくなるのではないか。
差別を受けて来た歴史の先達は憤懣やるかたないだろうが
未来を見据える上ではその方が良いのではないかとも思う。
(一部の利権に伴って差別が必要悪であるとする意見もあるが)
上で述べた中国の日本に対する怒りも
結局は教育によって積み上げられた、いうならば
後付の怒りであり、
いまいち日本軍が戦時中に中国でなにをしたか
はっきりと教育されてない日本人とで、歴史認識に対する
大きなギャップがあって一方はヒステリック、他方は侮蔑の視線を送ってしまう
という着地点のない争いになってしまう。
何でもリセットできれば良いのだが。

書いてみる

s-ura2004-08-09

久し振りに書いてみるYO☆。
と、文体を変えてみようと努力はしたが
一行で挫折した。
何故だろうか、文章に関してのみ
私は融通が利かないようだ。
それ以外は大概適当なのだが。
閑話休題
さて、もう意見が出尽くしたアジアカップ問題だが
日本人として今後中国蹴球団が来日した時
どう望むべきかを考えてみた。
①国旗を燃やしたり、井戸に中国人が毒を入れたとかの謂れの無い噂を立てたり、
 中国人サポーターに梅干の種をぶつけたりする。
民度の高さを世界にアピールする為に、いつ何時でも優しい笑顔で迎える。
③あくまでもスポーツの場としての節度あるブーイングと応援のみであとは国際交流。
④"南京大虐殺は嘘だった"とか"尖閣諸島は日本固有の領土である"といった横断幕を掲げる。
パンチ佐藤に意見を聞いてみる
⑥中国娘のいる飲み屋に行って国際交流する。
⑦完全に無視
どれも一長一短でいづれの選択肢もパンチに欠ける。
しかしその選択如何によって日本人の国際社会における
センスが問われることになろう事は自明の理であり、
日本人全体、そして世界のコンセンサスが得られるような
対応を周到に準備しなくてはならないと思う。
勝てば官軍、全てはそこに尽きるような気もするが。

作家受難

書こうと思うことが無く、
怠惰な日々を過していたのだが
書かずにはおれない事があった。
中島らも死去のニュースである。
ラリパッパのアル中作家ではあったが
間違いなく私の人格形成期に多大な影響を
及ぼした、私にとって偉大な人物であったことは
間違いない。
わかぎえふとの名コンビも好きだったし
軽妙なコラムに潜む
ドロドロした作家性が大好きだった。
最近はアル中も進行し、大麻による逮捕などもあって
表舞台からは退いていた感があるが
新作長編を楽しみにしていた。
今年は、バブル時代に青春を過し
ある意味刹那的な感性を持つ作家達が次々と
若くして亡くなっている。
享楽と退廃は紙一重であり悲劇も生むが、
中庸な人生もつまらない。
私はこれから人生をどういう方向性に持っていくか
ゆっくり考えようと思う。

wakige

先日、真夏日の休日に繁華街を歩いていたら
ちょっと驚く光景を目にした。
ノースリーブの女性が多数闊歩する中で
うら若き清楚な感じの、これまたノースリーブの
服を着た女性がふと手を挙げた。
その女性(ひと)の腋はさながら、プレデター
潜んでいそうな漆黒の密林であったのだ。
ばぁさんや高学年の小学生以外で、ましてや普通に
綺麗な女性の腋毛を生で見たのは
人生で初であった。
きっと、何か願掛けをしているか体に刃物を当ててはいけない
宗教の人なのだろう。
見た事がありそうで無かったものを
突然目にした私は、まだまだ世の中には
きっと知らないことが無限大に広がっているのだろう、と
感慨深い思いで一杯になった。

気管内挿管

しばらく、書くことが思いつかず
放置していたが、
気になることがあり書くことにした。
大学院の講義に向かう途中で
構内の一角でBTLS講習会を行っている風景を
目にした。
それはそれでいいのだが、消防士や救急救命士
の人々は、ここ最近話題となっている気管内挿管の手技に
関してどう思っているのだろうか。
今から私の個人的考えを述べようと思う。

まずは、救命救急士(敬称略)の挿管手技が公認となることで
救命率の向上が望めるのか、という事である。
米国の報告ではエビデンスは無く、有意な向上は
無いとされている。
しかし、それには挿管手技以外の方法(単純な用手気道確保と
アンビューによる呼吸の確保、ラリンジアルマスクの挿入手技) が完璧に履修されていることが前提条件であり、
本邦では米国の報告は前提条件も満たしていないと考えられる為 に当てはまるとはいえない。
何故、ラリンジアルマスクではいけないのか、考えてみた。
・手技が困難
・胃内容物があることを考え、誤嚥の危険性がある
・救急搬送中の様々な振動によるずれ
こんなとこだろうか。
しかし、上記リスクを慮ったとして、
挿管を行うべきなのか。
私は急激な気道の浮腫などによる狭窄が無い限り、
気管内挿管は最終手段であると考える。
ブレードを喉頭に挿入する侵襲度合いは実際にモニタリング
していると想像を絶するものなのだ。
収縮期血圧は瞬間的に200mmHgを超え、脈拍も150回/分を
超過する事だってある。
それが、例えば脳出血や心臓にリスクを抱えている人に
起こったとするならば、それがいかに致命的な行為であるか
は容易に想像が付くであろう。
患者状態を完璧に把握し、急激な循環変動に対する対応が
出来ていない間は
後から改善が望める誤嚥性肺炎のリスクを考えるより、
出来るだけ侵襲の少ない処置を全力で行うべきであろう。
今、麻酔科領域ではいかに挿管時の循環変動を抑えるか、
いかにラリンジアルマスクを効率よく用いるかという
方向に向かっており、それを全否定する現在の動きには
納得が出来ない。
まずは救急救命に関わる全ての医療者が
気管内挿管は安全に行え、確実な管理ができる環境でのみ
行う最終手段であるという認識を持ち、
代替手段を完璧に身に付けることが何より優先されるべきである。
つまり、実際の挿管手技を学ぶより先に救命救急士は
ラリンジアルマスク挿入を完璧に履修すべきだと思う。
もし、もう完璧だと思っておられる方が救命救急士の中で
大多数を占めているのであれば、逆に
手術室にきて講義して欲しいくらいである。
未だに麻酔科全国学会でラリンジアルマスク挿入手技に関する
検討、報告が多数発表されているのだから。
「気管内挿管さえできれば…」では無く、
「もう、気管内挿管しかない」という
認識の浸透が重要であると思う。